歴代藩主

森家
外様 18万6500石 (1603年 - 1697年)
初代・忠政
二代・長継
三代・長武
四代・長成
五代・衆利

松平〔越前〕家
親藩 10万石→5万石→10万石 (1698年 - 1871年)

初代・宣富
延宝8年(1680年)10月9日、陸奥国白河藩主・松平直矩の三男として誕生。元服して父の偏諱を受け、矩栄と名乗る。
元禄6年(1694年)、越後騒動で改易されたのち、合力米3万俵を与えられていた元越後国高田藩主・松平光長の養嗣子となり、光長の偏諱を受け松平釆女長矩と改めた。
元禄10年(1697年)に養父が隠居すると越後守を称することを許された。翌年には長矩に対し、美作のうちで10万石が与えられた。津山城を与えられ、美作の大部分を領した長矩は津山藩を立藩し、国持大名(準国主)として幕府から遇された。津山藩松平家の始まりである。
越前・越後以来の家臣はもとより、以前の津山の旧領主である森家(森衆利)の遺臣など、人材を江戸や京都にても求め、積極的に登用し、藩の運営を始めるが、同年、年貢を高く設定したために農民一揆(高倉騒動)が発生する。果断を持ってこれを乗り切ったが、この反省から、長矩は庄屋制度や大庄屋制度の改革による農村支配制の強化、財政改革を行なった。
立藩直後の元禄11年(1698年)9月、江戸で起こった勅額火事により、幕府より預かったばかりの藩邸を全消失した。のちに江戸城至近の鍛冶橋付近に藩邸用地7000坪と金1万両を与えられ、江戸上屋敷を再建した。
6代将軍・徳川家宣の賜諱を受け、宣富と再度改名した。
享保6年(1721年)2月7日に死去。享年42。跡を長男・浅五郎が継いだ。

二代・浅五郎
享保元年(1716年)9月1日、初代藩主・松平宣富の長男として誕生。享保6年(1721年)、父の死去により家督を継ぐが、享保11年(1726年)11月11日に早世した。享年11。
嗣子が無かったため御家断絶、改易となるはずであったが、結城秀康以来の家柄が考慮され、緊急措置として従弟の又三郎(初代宣富の弟・知清の三男)を跡継ぎとすることが認められ、藩を存続させることができた。しかしいわゆる末期養子であったために、罰則として藩の石高は10万石から5万石に半減された上、幕府における待遇、官位などにおいても以降冷遇されることとなった。
4代後の斉孝はこの境遇に不満を持ち、幕府にかつての10万石への復帰を訴えた上、家格復活を実現させるために、文化14年(1817年)に11代将軍・徳川家斉の十四男・銀之助(後の斉民)を養嗣子として迎えた。これにより、津山藩は5万石を加増され昔の10万石に復帰し、官位などの面でも旧に復することになった。

三代・長熙(ながひろ) 5万石に減知
享保5年(1720年)2月9日(2月29日とも)、初代藩主・松平宣富の弟である陸奥国白河新田藩主・松平知清の三男として誕生。
享保11年(1726年)に従兄で美作津山藩主・松平浅五郎が嗣子無くして11歳で早世したため、急遽末期養子となり、津山藩は10万石から5万石に減らされた上で長煕が家督を継ぐことを許された。藩内では、継承直後から享保12年(1727年)にかけて「山中騒動」と呼ばれる農民一揆が発生し、事態収拾に当たって一揆側の要求を大幅に受け入れた。しかし長煕もまた、享保20年(1735年)10月13日に16歳で死去した。
跡を養子・長孝(松平近朝の三男)が継いだ。

四代・長孝
享保10年(1725年)7月30日、出雲国広瀬藩3代藩主・松平近朝の三男として誕生。
始め広瀬藩本家の出雲松江藩主・松平宣維の養子であったが、一族である津山藩3代藩主・松平長煕が嗣子無くして享保20年(1735年)に早世したため、急遽その養子となって家督を継いだ。長じてのち、藩政においては庄屋制度を廃止して地方目付を配置するなど、それなりの政治力を見せたが、成果を見る前に宝暦12年(1762年)閏4月29日に死去した。享年38。跡を長男・康哉が継いだ。
改易となった本多忠央の預かり先となっている。

五代・康哉(やすちか)
宝暦2年(1752年)4月19日、4代藩主・松平長孝の長男として誕生。宝暦12年(1762年)、父の死去により跡を継ぐ。
先代の長孝は庄屋制度を廃するなどの"新法"による藩政改革を行なうことで藩財政などの再建を目指したが、あまり効果がなかった上、長孝も若死にしたため失敗に終わっていた。跡を継いだ康哉は、父が始めた新法による改革を一旦廃し、あくまで旧法による藩政改革を目指した。まず、同時代の名君と言われた上杉治憲や細川重賢らに倣い、大村庄助や飯室武中ら家柄にとらわれない有能な人材を登用して藩政にあたらせ、孝行者に対して褒賞を出す、育児法を制定するなどの、いわゆる社会福祉的な政策を中心とした藩政改革を断行し、成功を収めた。しかし天明3年(1783年)5月には天明の大飢饉による米価高騰により、領内で打ちこわしも起こった。
寛政6年(1794年)8月19日、43歳で死去し、跡を次男・康乂が継いだ。明治43年(1910年)11月16日、従三位を追贈された。
同時代の幕府老中で康哉と親交のあった松平定信は著書中にて康哉を、こう評している。
「人となり博学弁才無双、相学、天学をなして高談をよろこぶ。 いかがしけん、予をば至って親しみて、常に来り訪ひ給ふ。 相客あれば来り給はず。 これ又偉人なり。」

六代・康乂(やすはる)
5代藩主・松平康哉の次男として誕生。寛政6年(1794年)、父の死去により跡を継ぐ。
同年、浮世絵師の北尾政美(鍬形紹真、鍬形蕙斎)を藩のお抱えとして登用した。一介の町絵師であった北尾の正式採用は異例であったが、北尾は幕府老中を務めた松平定信と親交が深く、また定信は康哉とも親交が深かった、という縁も指摘される。またこれは、ただ芸術家を保護したのではなく、北尾が得意とした「(それまでの平面的な地図・絵図ではなく)俯瞰構図と遠近法を駆使して景色を描く」という技術を藩政および軍事に応用しようとしたものである、とする説がある。
藩政においては、領内に観農所を設置している。文化2年(1805年)7月13日、20歳で死去し、跡を弟・斉孝が継いだ。

七代・斉孝
5代藩主・松平康哉の三男として誕生。初名は康孝。
文化2年(1805年)に兄で6代藩主・康乂の死去により、その養子として家督を継ぐ。この頃、津山藩は御家門であるにも関わらず、石高や待遇において冷遇されていた。これに不満を持った康孝は、幕府にかつての10万石への復帰を訴えた。嫡男がいなかったためと家格復活を実現させるため、幕府からの要請もあり、文化14年(1817年)に11代将軍・徳川家斉の十五男・銀之助(後の斉民)を養嗣子として迎えた(10年後に四男・龍次郎(のちの9代藩主慶倫)が誕生する)。これにより、津山藩は5万石を加増され、昔の10万石に戻されることとなり、官位・家格も向上した。
天保2年(1831年)11月22日、隠居して家督を斉民に譲り名を斉孝と改名した。天保9年(1838年)2月3日に死去。

八代・斉民(なりたみ) 10万石に加増
11代将軍・徳川家斉の十五男として誕生、12代将軍徳川家慶の異母弟。
文化14年(1817年)9月18日、津山藩主・松平斉孝の養嗣子となる。文政5年(1822年)2月1日、御目見。文政7年(1824年)3月28日、元服して父・家斉より偏諱を受け斉民と名乗り、従四位上・侍従・三河守に叙任する。文政9年(1826年)12月、左近衛権少将。のち正四位上・左近衛権中将、越後守。天保2年(1831年)11月22日、養父の隠居により家督を相続する。天保3年(1832年)4月19日、初入国する。以後、藩の財政再建や教育の普及などに力を注いだ。
安政2年(1855年)5月3日、養子・慶倫(斉孝の四男)に家督を譲って隠居し、確堂と称する。文久3年(1863年)4月、津山に隠居した斉民に対し、幕府は毎年1万俵の隠居料を給したが、これは将軍・家斉の実子という理由の他に、誠実な性格で将軍家において人望が厚かったためとされる。
慶応元年(1865年)3月、江戸に出府する。維新の動乱の際は、勤皇、佐幕の方針をめぐって藩内は混乱したが、斉民の力をもって勤皇に統一した。慶応4年(1868年)5月3日、江戸開城に伴い新政府より田安亀之助(徳川家達)の後見人を命じられ、その養育に尽力した。明治14年(1881年)12月、従三位に昇進する。明治15年(1882年)6月、麝香間祗候。
明治24年(1891年)3月23日、78歳で死去した。家斉の53人の子(そのうち男子は26人)や孫の多くが夭折したり、子孫が残せぬものが多い中、例外的に長命であったといえる。

九代・慶倫(よしとも)
文政10年(1827年)閏6月5日、7代藩主・松平斉孝の四男として誕生。幼名は龍次郎、温之助、淵之丞。初名は有倫。弘化4年(1847年)9月、8代藩主・松平斉民の養子となる。同年12月1日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。嘉永元年(1848年)1月23日、従四位上・左少将・三河守に叙任される。後に正四位下・左中将にまで昇進する。
安政2年(1855年)5月3日、斉民の隠居により家督を相続する。文久3年(1863年)、国事周旋の内勅を受け上京し朝廷と幕府との調停にあたり、八月十八日の政変以降は藩内の尊皇攘夷派の排斥をおこなった。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により津山知藩事に任ぜられる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免職となる。同年7月26日、45歳で死去。法号は慎由。墓所は岡山県津山市八子の愛山松平家墓所の愛山廟。
しかし、明治政府には死亡を隠し、公的には以下のように届け出た。
「明治4年(1871年)8月10日、隠居し、養子康倫(実父・斉民)に家督を譲る。同年8月12日、死去。」
その後、康倫は明治11年(1878年)に没し、康倫の弟松平康民が越前松平家の家督を相続した。